おいしいごはんが食べられますように
うまく書けるかわからない。
それなら仕事じゃないんだから、義務じゃないんだから書かなければいい。
そうなんだけど身体からださないとずっと内側にいてそれはきっと今良くなったと思ってたバランスが崩れたみたいにずっと残っちゃうから書きます。
近所のいつも入らない本屋さんで久しぶりにジャケ買いした本。
語弊があったら良くないけど
食べものを通して描く本、
わたしの中でステレオタイプがあった。
だからわたしが悪い
フラットじゃなかった
前提として本を批判してるわけじゃ全く無いのです
押尾さんに共感する人、少なくないなと思った
わたしは芦川さんの視点も描かれるのかと思ったらそういうわけじゃなかった
だから、わたしは弱者をぶら下げてしまったわたしは他人からこうやって見られてるんだと忘れていたこと、狭くなった視点にズバズバ刺されてしまった、
社会はきっと弱者に優しくなった
弱者への共感を煽る作品も多くなった
その作品たちの
そのままでいい
にたくさん救われた
でもわたしは知ってる、体験してる
気づいた人がやればいい
には
気づかない人は一生やらないから
結局気づいてしまった人だけがやることになる
それは出来ない人の分を出来る人が、
出来てしまう人がカバーするのと同じだ
ああ
わたしの達成できなかった目標を
削らせてもらった目標をカバーしてくれたのは誰だ?
でも
押尾さんは芦川さんに言葉で伝えることはできなかっただろうか
仕方ないからで守る方だけにみんなが寄らず押尾さんへの共感があれば
芦川さんはまた違う気づきをできたのではなかったのだろうか
二谷は、、、
正直よくわからない
こういう人をわかりたいと思ってたけど
最近はもうわからないままで
別に関わらなくてもいいなと思うようになった
わたしは聖人じゃないし自分のことさえままならないのに相手のことを救ってあげたいって思うその心ってなんなんだろうとまでは思わないけど、なんか結局見下してる感じがするからかな、わからない考えることを最近放棄してるからかもしれない
なんか書いてたら気持ちが落ち着いてきた
母に心配されたのでわたしは自分の神様がいるからいろいろとハマらないよと伝えたら、わたしの神様とか言ってる時点でちょっとヤバいって言われたけど
やっぱり神さまがまたちょっと意地の悪い方法で違う視点と刺激を与えてきたんだなと思ってしまう
すべての本や作品がそうだけど
きっと押尾さんに共感できるか否か
今まで押尾さんだったか否かで本への感想が変わる気がする
芦川さんみたいな人、いるよね
そう思う人もいるだろう
じゃあなんで芦川さんはああなった?と考える人は
これもわたしのステレオタイプだけど
前者よりぐっと減るんじゃないか
これはどちらかというと強者のための本
そんなカテゴライズは無いんだけどね
色眼鏡のないわたしたちにしか見えない世界と自分の守り方を必死に覚えてしまった人間にしかわからないことがあるように
出来る人間にしかわからないことがたくさんある、のだろう
兎にも角にも
この本について書いてる記事で書くのは反則だけど
それでも敢えて
食べてもなくならない、そんなごはんをすきでいたい