ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい
友人が手紙に書いてくれていたもう一冊の本を読んでみました。
今回初めて電子書籍を試してみました。
電子書籍に関しては、おうちではiPad、電車ではiPhoneで読めて、特に電車ではよく降りる駅でバタバタするんですけど、降りる駅の扉が閉まる前にサッと立って出られるのが良かったです。
あと字の大きさもストレスないサイズで読みやすいから、断固紙派!と思っていたわたしですがなかなか悪くなかったですね( ˊ̱˂˃ˋ̱ )
あともう一つよかったのがしおり機能。
読みながら文庫本を写真撮ったり、頁数iPhoneにメモ取ったりして中断されがちだったけど、心に引っかかったところをスグにポチッと栞できるのがかなり良きです。
タイトルの話と他に3本入った4本の短編が入っている本でした。
ひとを、友だちとして好きという気持ちはわかる。恋愛対象として好き、というのがわからない。そのふたつのちがいが七森には見つけられない。
冒頭のこれを読んだとき、手紙を書いてくれた友人を思い出しました。
恋愛対象としての好き、、、みんな綺麗に言ってるけど、性欲の有無だと今のところわたしは認識してる。じゃあ、アセクシャルの場合はどうなる?(こう言う呼び分けをするのはこの本に反してるけど書かないと説明が難しいのであえて書いてます。)
わからない。
恋愛として好きな人と友達として好きがどちらかというと自分の中には区別があるように思うから、区別がない気持ちも性欲で分けていない気持ちも、言われれば理解はできるけど本当の意味ではわからない。
全編通して、「やさしさ」のいろんな側面を感じる本で、言葉どおりの「やさしさ」や居心地の良さ、存在の肯定だけじゃなくて、白城さんの言葉を借りるなら「こわさ」「あぶなさ」「痛々しさ」もあるなって。
後者は、前者の悪い言い方をした傷を舐め合ってる時は目を伏せがちだし、「変わらなくていい」って救いだけど、痛みを伴ってでもその傷を抉ってやるのが本人にはできないからこそ他人が介入してやれる「やさしさ」のときも、あるのかもなって。
だから『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の中のラスト
やさしすぎるんだよ、と白城は思う。傷ついていく七森と麦戸ちゃんたちを、やさしさから自由にしたい白城は、ぬいぐるみとしゃべらない。
ななくんと麦戸ちゃんたちが、白城の持ってる「やさしさ」も知れたら、知るだけでいい、白城と同じになる必要はない、だけど知ることができたら、少しだけ、もしかしたら少しだけ彼らは生きやすくなるかも知れないな、と思った。
この本のおもしろさ(interest)というか不思議さは、すんなり入ってこなくて、ん?となって何度も読み返してもよくわからない文節があるところ。
逆説が逆説で使われてない、順接が前の事象を拾った結論を導いてないように、少なくともわたし自身は思う節とかがあった。
でもそれが、頭の中の声を書き起こした時に起こる自然な文節なようにも思えました。
わたし自身、少し悲しかったのが
少し前までは、この本を読み始めたくらいから気持ちが引っ張られて泣いちゃってただろうなあと思ったこと。
そう、思っただけで俯瞰の自分がいたんです。
七森や麦戸ちゃんに、完全に共感できなかった。重なりそうで重ならなかった。
人間は変われない。積み重ねるだけ。という思考の人間なので、自分のことを「変わった」とは思わないけれど、社会に出ていろんなことが生の感情にベタ塗りされているんだなあと改めて実感しました。だから、ベタ塗りされたとて、やっぱり生きづらいと思うことも多いけど、少なくとも今は半ば諦めもあって、複雑な感情の一部は埋もれたんだなという事実が少し、悲しかった。
白城さんはモラトリアムの中にいながら先にその事実に気がついて、社会で生きるための術(強さ)に目を向けているのは凄いことだと思いました。
だから七森は自分や麦戸ちゃんの思考を白城が知ってくれればって思っているけれど、わたしは蓋をしてしまっているのは七森の方かもしれないって、まあわたしの考えなんですけどねこれも。
あと、わたしにもぬいぐるみのおともだちがいるんですけど
彼に積極的に話しかけたりすることはないです。
旅には連れてきますし、朝起きたとき枕で潰れたりしてる時は「ごめん」とか言いますが、ぬいサーの皆さんみたいに話しかけることはありません。
その代わり、わたしの中にはあと2人わたしがいます。
声に出さないでよく話してます。
でもやってることは一緒で、ぬいぐるみを通して自分に話しかけてるか、もうひとりの自分という媒体を通して結局自分に話しかけてるんですね。
これを読んでいて、最近彼女が出てきていないことに気がつきました。
やっぱり今現在は安定しているのでしょう。
七森が捲し立てるように話し続けるシーン。
こわ、と麦戸ちゃんは思った。
かなりストレートな表現。
わたし自身もこのときの七森みたいなことがよくある、というかほぼこの状態だなと、でも最近は人の話をきけることが多くなったなと。
本の中の彼らをみていると他人から見えてるわたしって彼らなのかなって。
ある種同情的な共感もあったし、脆さへの美しさ、感情や創造性の魅力もすごく感じたけれど、危うさや痛々しさもストレートに感じてしまって、今までの自分に対する恥ずかしさやまわりに配慮させていた(今もだけど…)申し訳なさがじわじわと込み上げてきました。
話が飛び飛びなんですけど、
やさしさから自由にしたい白城は、ぬいぐるみとしゃべらない。
この節のあとに
『たのしいことに水と気づく』の最後で
水にいうことかもと思いながら、箱崎にそう拗ねた。
とあるのが、話が繋がってるわけではないけれど、白城さんが希望を抱いているひとつの未来なんじゃないかなと思って、ふたつの話、別の人生を勝手にわたしの中でリンクさせた瞬間でした。
友人は、どんな気持ちでこの本を手に取って読んだのかしら。
今度会える時に聞いてみよう。