不器用リカコの書きたい人生

20代リカコが書きたいことを書きたいままに書くだけのブログです。

闘う斃す

勝つか負けるかそれはわからない

 

それでもとにかく戦いの

 

出場通知を抱きしめて

 

アイツは海になりました。

 

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戦うことすらしてない。

 

マツコ会議creepy nutsが出るというので見た、

少しだけ嘘

わたしもふたりの涙という本物をテレビの演出がひきに使ったプロモーションに惹かれて、見た。

 

社会は、短い言葉で事実だけを端的に伝える必要がある

わたしの長文な気持ちは削ぎ落とされていく

そんなものは、いらないし、邪魔だし、非効率だし、お金にならないし、忙しい人達のストレッサーだから、だ。

 

先日、友人と電話をした。

3年前と、変わらないままだなあ、と思った。

同時に自分が変わったんだなあと思った。

彼女が「自分の大切にしてきたものが一切通用しないんだなぁ、と思った」と言っていた

それを聞いて、何故か

小川みきの「がんばれば評価されるなんて義務教育で終わりだろ。」というセリフを、

思い出した。

最近明らかに、前みたいに家に帰ってきてうわああああって泣かなくなったし

悶々としなくなった。

諦めたんだなあと思うことに何も思わなくなった。

でも彼女は3年前と同じことで憂いていた。

彼女の職場が彼女に合っているか、彼女が良しとしてるかそんなのはわたしの基準で計り知れないけれど、自分は変わらざるを得ない環境でうまく社会に、会社に溶け込めるように、足掻いて、「自分の大切にしてきたもの」がなんだったのか、まるでちひろが奪われた名前を忘れたように

いかに周りにグラデできるか目立たないか、社会というキャンバスに個性とかアイデンティティとかそういう濃い色で垂らされた己という絵の具を他の絵の具とキャンバスと馴染ませられるか、馴染ませようと頑張っても頑張ってもお金になることも感情の均しもうまくできないと思えば思うほどドス黒い血がキャンバスに流れて濁った灰色の涙で緩和しようにもしきれなくて、そんなことばかりで。

 

ブログの日記の件数が減ったのは本当にそれだと思う。

何も、思わないのだ。

何も思わないわけではないけど風呂場で叫んで早く寝ないとという気持ちで早すぎる社会の流れで排水口に流されていくのだ。

 

今も昔もわかってほしいなんて望んでない。

 

でも同じモラトリアム期を過ごした人たちですらキャンバスに美しい画を描けるようになっている

一緒にどんな色になれるかな、どんな画を描きたいかなって話してた人たちは一つの完成形になりつつあるのだ

 

わたしは色になれないまま

キャンバスに馴染んで見えなくなってしまって楽になろうとしている

そうならざるを得ない、大人って、社会って、会社って、協調性って、そういうもんなんだそういうもんなんだそういうもんなんだって

 

それでも周りからは何を考えてるかわからないし協調性もないし仕事もできない人って評価なのだろう

 

負けるとわかってても闘うのが人生

今日も無双モードで差し違える覚悟で斃す

 

そんなわたしは、わたしはどこへ行ってしまったのだろう

 

彼女から離れた理由はそれではない

それではないけど彼女の音楽がわたしの中の割合から減ったことはそれを示している気がした

 

ファイトも彼女の音楽も

闘わないものにはきっと何でもない

 

長文の気持ちをそのまま聞いてくれる人がいなくなった

それはみんなその必要がなくなったから

 

お金の対価って心なんだと思う

 

心とかなんか普通の書き方しかできないのがキモすぎるけど

心とお金を同じくらい十分に得られる人はほんの一部で

みんなどれくらいのバランスならどっちも許容できるか意識無意識のうちにやってるんだと思う

 

辞めたかった死にたかった辛かった

相手に支えた意識はなかった

それでも伝えたかった

 

まだ元の名前を思い出したいという憂いがあるうちは

また間違えた

引かれた

これは"普通"じゃないんだ、社会の"普通"はどれだ

何でみんなにできることがわたしにはできない?

どうしたらいい?

わたしのままでいることは悪なの?

長文の気持ちを箇条書きにしないと伝わらない人間しかいない世界なの?

それならいっそ壊れてしまえばいいのに

そんなことで日々血の涙を流しながら戦う、闘うべきなんだ、、、

 

そんなことを考えた朝。