舞台
どうもこんにちは。リカコです☺︎
本日はこちら。
上司の前で泣き、後悔し、二年間必死で隠していた心の柔らかい部分を剥き出しにしてしまい、一番迷惑をかけたくなかった上司に本性がバレた今、辞めたい一心に駆られ、彼女の声は大きくなり、パニックになったわたしは、数年ぶりの縁切り病が発動し、在職中にもかかわらず、社内でいくつか入ってたグループラインを退会してしまった。辞めると思われるかな、という気持ちとどーせ誰も見てない気がつかないという気持ちの両方があった。
結局このあと久々の友人と会ったこと、行くつもりのなかった小顔矯正で2人のメンターとおしゃべりしたことでまたも記録更新の立ち直りの早さを見せた。抜けたグループも消した連絡先もやっと非表示にできた先輩とのメッセージも何にも後悔しなかった。
西加奈子さんとオードリー若林さんの話を聞いてから、昔読んだ「きりこについて」の作者がこの女性だと初めて認識した。
2018/08/28
おやすみの日に電車でちびちび読み進めていたのですが、キリコのときにも思ったけど、西さんの文体というか小説ってなんか独特です。
わたしこの文体知らないって思う感じ。
そしてまた不思議なことに葉太に共感できるのにできない感覚。
なんなら途中からこの人、抱きしめてあげたいでもきっと彼はそんなことされてる自分に耐えられなくなるんだろうな、でもわたしはこの人を助けたい、でも助けたいなんて自分が思うのはおこがましいだろうか?いやそもそも助けたいという感情が彼より自分を優位に立たせて感じてしまった感情であり、それは優しさとかではなく無意識のうちに目の前の相手に優劣をつける行為なのではないのか?だとしたら自分はなんて卑劣なんだろう。でも目の前のこの苦しんでる葉太の苦しさも理解できる。彼と感じるものは違くても同じ類の苦しさをわたしも感じて生きている。だけど彼ほど不自由じゃない。わたしは自分を受け入れることで多少生きやすい幅がある。教えたい。彼にもそんな世界がちゃんと存在してることを知ってほしい。彼に自由の幅を知ってほしい。でもそんなこと思ってしまう自分って…のループに陥って、これは小説の中で無印良品の商品を手にしたまま売り場に立ちつくした葉太と同じだった。
後書きを読んで共感できるのにできない感覚に合点がいった。
葉太はハンサムで裕福だった。
焦点は自意識なのだ。
外から来る内側への視線(を意識する内側の視線ではあるんだけど)。
なるほど。わたしは内側からの視線と声が大きいばかりに外側からの視線や声が見えない聞こえなくなることがあるから少し違うんだろうな。だから理解できるけど共感ではなかった、ってことか。
質問サイトに書かれたお互い両思いがほぼ確な彼から告白されたらどのようなリアクションをとればいいかという質問に、「意味がわからないんですけどっ!」「好きなら思う通りに言えばいいじゃないですか!」「悩むことなんて、全くない!」などの答えが並んでいるのをみて葉太が馬鹿か、と思うシーンがある。
『この子が知りたいのは、どのようにその気持ちを伝えるのが「正解」なのか、なんだ』
革新的だった。
だけど読み進めて、確かに無意識にやっていることだと思った。
目に見えない、だが確実にあるラインを、その子は踏み越えたくないんだ。「正解」の中に、いたいんだ。皆に笑われたくないから、引かれたくないから、排除されなくないから。そして、そういうことを延々と考え続け、社会から押し付けられてきた結果、俺たちには「ありのまま」なんて、なくなったのだ。
この続き部分も本当に革新で核心だから是非読んでほしい。
必死だよ、バレたら排除されるから。捨ててしまえば楽になれるのかな?
社会に無理に同化しなければ楽になれるのかな?
否。現代社会はそんなふうにできていない。
正解から外れた人間を徹底的に排除する。
そういうもんだ。
それなのに、演じることを否定するなんて、ありのままを押し付けるなんて、変だよね、反吐が出る。
後書きの最後は
『それが言いたかったことです。』でしめられている。
言いたいことを言語化して答え合わせのように書いてある本って、少なくともわたしは初めて見た。
西加奈子さんの本、また他の作品も読んでみよう。