不器用リカコの書きたい人生

20代リカコが書きたいことを書きたいままに書くだけのブログです。

天才はあきらめた

どうもこんにちは。リカコです。

以前から気になっていた本を友人Fの家で見つけました。

 

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しくじり先生や山里さんのラジオをちょこっとだけ聴いたことあったので、書いてある内容やエピソードはなんとなくどんなことか想像していました。

 

読み始めた印象としては、思ったより言葉や文章が刺々しくなくて、スッと体の中に入ってきたというところでした。

本の中にもありましたが、嫉妬心を燃料に自分を焚きつけたり、相方を組んできた方に対するストイックの強要など、内に内に籠って強い刺激になるべく晒されないようにどうか安定的な日々を…と精神ぐらぐらで生きている私のような人間には、刺激が強すぎて読めるか不安だったのですが、内容とは裏腹に突っかかりなく言葉が入ってきたのが意外というのが第一印象でした。

 

 養成所に入る前のエピソードの中に、『「何者か」になりたい』について書かれていました。山里さんは、この「何者か」について、「何者か」になりたいということより、その得体のしれない「何者か」を無意識に認識して、自然と努力できる存在(それを天才と彼は定義していた)になることへのこだわりと、その思考に陥っている時点で彼の言う天才ではないこと故の苦しみと講じてきた打開策、その失敗と成功について綴られた本でした(もちろん自叙伝であり彼の記録の本だからそんなテーマは公式にはなってないですが)。

 

「何者」というと浅井リョウさんのそれがチラリと頭にちらつきますが、まさにそれで昔は知らないけど、私が生きている世界、私自身は、己の存在意義とか価値とか、どうなっていきたいかとか、先のビジョンがないことの生物的に生存していても人間としてのは死んでるとか、そういうアイデンティティを自覚して生きることへの憧れ、渇望や義務感に常に縛られているなあとあんまり見ないように考えないようにしているどうにもならない感情を想起させられました笑

 

この本の中でしきりに『張りぼての自信貯金』というワードが出てきます。

これは完全に自分にはない感覚で、面白いし、これが出来ることは才能だと思いました。彼は、本の中で自分は天才じゃないから努力をサボりたくなるが、如何にしてそのサボりたいを滅するか、湧き出てきたマイナスな感情を前に進めるかと考え、さらに行動に移していくかが書かれていて、結構序盤で「なるほど。この方は自分にない感情の処理の仕方をする人なんだな」と改めて思いました笑

山里さんはオードリーの若林さんと仲が良いので、

若林さんのエッセイやラジオで若林さんが持論を展開した後に春日さんに「ちょっと難しいなあ」と言われているときの話への共感性がめちゃくちゃ高いわたしも山里さんの綴った本に共感できるのかなあと思ったのですが、彼らが仲が良いのは少なくとも本の中では分からない部分なんだろうなあと頭で脱線しながら先を読み進めました。

 

山里さんが書いた今までの出来事だけを文字面だけで追っていくと、疑問に思うことがあります。「山里さんの人生を左右するような密接に関わる人々は人が良すぎやしないか?」ということです笑

最初に組んだMさんの墓場でひたすらルを唱えさせるエピソードは有名ですが、Mさんはキャパを超える山里さんの要求にも「お笑いに熱い」山里さんを信じてついていこうとした彼は本当にすごいと思うし、わたしも山里さんだったら、ごめんねとありがとうでいっぱいになると思います。

富男くんもまたキャパを超える要求を強いられても「山ちゃんは面白い」でついていき(しかも2年!)、最終的に警察公認の大暴れをしたあとも、最後の舞台だけは責任もってやり切るという漢気(私なら音信不通になってとんでもおかしくない)。

そしてしずちゃんしずちゃんもなかなかのエピソードをされる中、「自分は山ちゃんに拾ってもらったから自分から解散は言わない」って、凄すぎる…。

 

でも読んでいて気が付きました。

相方さんたちの言うように山里さんはお笑いという彼が見つけた「何者か」の答えに対して真っすぐに一生懸命でそれが分かっていたし、その先の未来に希望が見えるくらいの熱をちゃんとキャッチしていたからついていったんだろうなあと。

文章にしちゃうと薄っぺらいけど、実際に近くで山里さんのお笑いの熱を感じていたからこそみんな信じて壊れるまでついていったんだろうなあと。

 

そんな山里さんですが、「どんなものがやりたいか」という問いに答えられないという話がありました。もちろん本の中では漫才に対してですが、「何者か」やアイデンティティに関するところに私は置き換えて読んでしまいました。

むしろ、「どんなものがやりたい」がない中で、周りの声や前に進めない現実に苦しんだり憎んだりしながらなぜずっと逃げる理由ではなく戦うため、努力するための理由を設定し続けてお笑いを続けられたのか、私には全く理解しがたくて(根底はお笑いが好きがあるのかもしれないけれど彼の文章の中にそれを感じられる箇所がなかったので)何に突き動かされてるのかが自分にはない感覚過ぎて不思議で仕方ありませんでした。

 

 

そしてM-1の医者のネタ。当時私は、小3くらいかしら。

気になって本の途中で見ちゃいました。やっぱり面白い!

こんなに軽快に漫才してる人の裏にこんなにエピソードと嫉妬と怨念がありようには見えないよなあ…とひとしきり笑った後に改めて思いました。

 

そんな感じで完走。したと思いきや、ん?まだ続きが・・・

 

若様!www

カバーしていて気が付かなくて、ブログ書き始めて気が付いたのですが、帯にしっかり書いてありましたね笑

なかなかスパイシーなインドカレー食べた後、セットなの知らなくて急にぬるめのラッシーが食後に運ばれてきた心境でした笑

 

山里さんのしくじり先生を見たとき、わたしは最後のしずちゃんへのありがとうかごめんか忘れましたけど、あれしかり、本の中での今だから言えるごめんとありがとうしかり、本心なんでしょうけど、なんとなくこれも彼の先を見据えた演技の部分が入っているのでは?と勘ぐってしまうくらい彼は策士で、この本さえも冒頭で書いていた「何者か」を無意識に認識して、自然と努力できる存在(努力しない理由を抹殺し退路を断つ手段を自ら半自動的に行っている)、読み終わった後に読者に読者なりの定義の”これ”を言わせるための大きなフリなのではと思いつつ、私もこの言葉で締めたいと思います。

 

山里亮太は天才である。