自分の中に毒を持て
しかしどんな時代のどんな状況のなかにだって、熱っぽく語りあい、問題意識をわけあう仲間がいた方がいいに決まっている。
今のわたしに、仲間は、いない、。
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どうもこんにちは。リカコです☺︎
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どうもこんにちは、リカコです。
気分が落ちているときにこの本はきっと読めない。
そう思って1、2年前から何度も本屋の平置きをスルーしていました。
ここ数日、調子が悪いです。
読みはじめたときは朝の通勤電車でした。
落ち着いた状態からこの本を読んでいると、友人の言葉を借りるとカンフル剤となってドンドン飛んでる感覚、アドレナリンが出てる感覚になりました。
だから、落ちてるときは読めないかなと、思っていたのですが、今、いろんなことを考えて涙が滲む今、読めている、から単純に自分と対話しすぎてるときは声が邪魔で読めないだろうと、ただそういうことだったんだろうなと思います。まだ読み終わってないのに何で急に書き出したのか、わかりません。☺︎以前は言わずもがな、朝の通勤電車で書いてました、いや、帰りの電車だったかも。
この下から本の画像と本の内容を書こうと思います。ひさしぶりに長めの前置きです。
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久しぶりの新規本はこちら。
読むリストに入れていたのは、若林さんが読んでいたと若林さんの著作かラジオで言っていたから。
おそらくまだこのブログで本について書くことを意識してなかった時のメモだったからかそこまで書いておくのを失念しておりました、忘れてました。
まだ読み途中ですが、反発(というほど強い感情を今のわたしは持ち合わせていないけれど)と共感どちらも呼び起こす本だなと。
20代が書いている本ではないと分かっていながらも46歳でスキーを始めたという一文で46歳でこれを(実際はもっと上かも、)書いてるんだあと思った自分がつまらなくなったなと思ったし、でもずっとこのエネルギーでいられる人ってどれくらいなんだろうって、岡本太郎さんが危険な道を運命として選び、賭ける決意をはっきり自覚した二十五歳より一つ上の26歳のわたしは思ってしまった、かなしい、本当は悲しいと思ってないこともかなしい。
わたしは普通になりたくて薬も飲み続けてるし、争いたくないし、出る杭として打たれたくもないのに、それ違くない?と思うと動いてしまう、だけどその動きも中途半端、だから何も成し遂げられない、だから苦しい。
目指してるところは普通に溶けることだから命を賭けたくない。という反発かな。
自分の中の毒で死にたくない。
ぬるくていい、普通に溶けた日常で貰ったお給金でおいしいものを食べる、それで十分なのに、それができないことがこんなに苦しいのに。それでもなお闘わなければと鼓舞するそれはわたしの中の何なのだろう。
昔のほうが読めたかもしれないし、昔のほうが読めなかったかもしれない。
共感は2章から。
彼の本意に沿ってるかは別だけれど。
成人式は文明社会では祝うものだけど、本来はただ祝って楽しんですむものじゃない。
厳粛に、きびしく、「社会」というものをつきつける、イニシエーションであるべきだ。
激しく同意です。
まあただ改めて親への感謝を述べたり、ちゃんと20まで生きられてるよとハレ姿を見せるのは、悪い風習じゃないかなと、個人的には思うけど。
はたちにもなれば、もう腐った大人だ。
社会と闘えと言いながら社会の中で生きる責任を痛みと共に知れ、というのは矛盾だけど、それが成人であるべきなんでしょうね。
わたしの腰から足にかけての痛みが神さまからの警鐘だったのでスッと気持ちが落ち着きました。
第3章以降読了後、また書きます🐇
第三章 相手の中から引き出す自分 それが愛
まあ、わたしが好きそうなタイトルですね笑
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読了。
前に書いた↑までの感想、やっぱりうわあああって書いてた記憶だったけど、割とまとまっててまずびっくり笑
それはそうとやっぱり前より書きたいが沸き起こる頻度と熱量が減ったなあと思う。
確実にわたしの情緒は抑えられていってるし、前述のとおり平和に穏やかに生きたい反面、やっぱりわたしも闘いたい、瞬間瞬間の死に直面しながら命を燃やしていきたい。
どっちもわたしなんだよなあ。
これが脳の病気、躁状態によって引き起こされてるそれだったとしても、それを持って生まれ落ちて生きてるのは紛れもないわたしで、だからそこに本当のわたしとかなくて平和温和に生きたいのも命を燃やして闘って生きたいのもわたしなんだ。
なんか不思議な本だった。
激しく反発もなければ引き寄せられる程の同意もない。
だけど確実に一文一文抑えられてるはずのわたしの情緒の糸を摘んで揺らす。
またわたしで生きられる気持ちになれた、気が、する。
ありがとう岡本太郎氏。
わたしは闘ってもがいて生きて、そしてそんな自分を瞬間瞬間殺して、またもがいてもがいて生きて闘って、その瞬間が来たら美しく散って死ぬよ。